top of page

1.

M

 大学の入学式、着慣れていないスーツのせいで、歩き方が変になる。晴れ晴れしい日なのに、母は仕事で来れなかった。一人で会場まで向かう道、「みっちゃん?」と後ろから声を掛けられた。私をそう呼ぶ聞き覚えのある声と、甘ったるい薔薇の香りに記憶を思い返す。それは、「まきちゃん」とまきちゃんのお母さんだった。


 「本当に久しぶりだね」「お母さん、元気?」「近くに住んでいるのに全然会わないわね」当時と同じように優しい声で私に話してくれた。 たわいもない会話をしながら表面上は取り繕っていたが、内心では驚きと焦りでいっぱいだった。

 

 「そういえば、ヴァイオリンは続けてるの?」まきちゃんが私の目をまっすぐ見つめて聞いてきた。「いや、あれからはしてないよ」前を向いて答えた。「実は小学校の卒業祝いにあのヴァイオリン、みっちゃんにプレゼントするつもりだったんだ。でも、盗まれちゃって」まきちゃんがそこまで話した時、まきちゃんのお母さんが話を遮った。「1番安価なものだから気にしてないけどね」


 会場までの道はとても長く感じたし、何を話したのか本当はあまり覚えていない。

_________________________________________


 私の家庭は母子家庭だった。父と母は私が小学校にあがる頃、離婚した。かといって、貧乏という程でもなく、毎日3食食べていたし、お風呂にも入っていたし、欲しいものもある程度は買ってもらえた、いわゆる普通の家庭だった。


 私の父はオーケストラに所属していて、世界中を飛び回っているような人だった。そのせいもあり、幼少期、私は音楽に対して強い憧れがあり、父の作品を母に内緒で聴きながら、いつか自分も父と同じオーケストラに所属したいと考えていた。


 小学校6年生の時、私のクラスに転校生がやってきた。お嬢様という感じで、とても優しく上品な子だった。将来の夢についての授業で、私が発表をした後、まきちゃんは私の元に来て、「みきちゃんの発表とってもよかったよ。家にヴァイオリンがあるのだけど、よかったら見に来ない?」と声をかけてくれた。そこからまきちゃんと仲良くなった。


 何でもまきちゃんのお母さんがヴァイオリンが趣味らしく、まきちゃんの家にはたくさんの種類のヴァイオリンがあった。偶然にも家が近かったので、放課後はまきちゃんの家に行ってまきちゃんのお母さんからヴァイオリンを教えてもらい、一緒におやつを食べるのが日課になっていた。


 体中に響くメロディ、顎に当たる木の冷たさ、弦を抑える度に痛む指先、ヴァイオリンを弾いている時間は私にとって最高の瞬間だった。小学校生活最後の1年間はまきちゃんとの思い出と共にあっという間に過ぎていった。

 

 小学校の卒業式の後、母と手を繋いで帰った。「卒業祝い、何か欲しいものある?」母にそう聞かれた。少し間をあけて、「本当は、私ヴァイオリンが欲しい」そう答えた。すると、母の態度が急変した。「ヴァイオリンなんてあなたには似合わないでしょ」母は怒っていた。


 私は咄嗟に母の手を離して走った。「どうして私だけ?」悲しくて辛くて、今まで抑えていた気持ちがあふれ出し、感情がぐちゃぐちゃになって、気づいたらまきちゃんの家の前にいた。家には誰もいなかったが私は躊躇なく、いつもの裏口から家の中に入った。


 家には誰もおらず、整理の行き届いた豪華な部屋がいつもよりうんと広く感じた。私は一直線にあの部屋に向かった。ヴァイオリンを手に取った瞬間、何だか悪い考えが浮かんだ。「1個ぐらいいいじゃん」次の瞬間、私は家の外にいた。


 手提げかばんを抱えて、家まで走って帰った。ヴァイオリンは押し入れに隠した。しばらくして母が帰ってきて、「ごめんね」と言って私を抱きしめてくれた。しかし、私の心臓の高鳴りは音を増すばかりだった。母の優しさは私の後悔にかき消された。


 その晩、眠りにつこうとすると胸がぎゅっと掴まれたように苦しく、息をするのもしんどかった。布団の中にこもって目を瞑り考える度にどうしようもない後悔で涙が止まらなかった。すぐに返せばよかった、盗まなければよかったと何回も何回も過去の自分を恨んだ。


 中学入学と同時にまきちゃんとは疎遠になった。だからといって私の苦しみが消える訳ではなく、私は一生この秘密を罪悪感と共に抱えていかなければならなかった。大好きだった音楽も私の記憶を蘇らせる鍵となってしまった。ヴァイオリンともオーケストラとももう関わることはないのだろう。

閲覧数:4回0件のコメント

Comments


​よろしければあなたのお話聞かせてください。

お問い合わせ

bottom of page